PROFILE

河野謙 こうのけん

  • 1987年7月10日生まれ(卯年 かに座)
  • 血液型:A
  • 双子の長男
  • 3児の父(長男H28.7 長女H30.12 次男R2.10)
  • 長野県野沢温泉村在住(横落のFujiyoshi。ずっと地元民)
  • ファイナンシャルプランナー
  • 妻:嘉代ちゃん(飯山市・大倉崎出身。春-秋は実家のお米農家、冬は野沢のペンションの手伝いをしてくれている働き者)
河野謙のファミリー

生まれ

昭和62年(1987年)7月10日生まれ。

父:政己
高校卒業から65歳まで小賀坂スキーに勤務、現在は長野県スキー連盟

母:美鈴
長野市・三輪出身。若い頃は北野建設に勤務、結婚後は実家のペンション『Fujiyoshi』を切り盛り

の間に、双子の長男(弟は連。中学ぐらいからやんちゃ過ぎる。現在は埼玉県蓮田市に在住)として生まれる。

学校

野沢温泉村立ひばり保育園

さくら組、ひまわり組、きりん組

野沢温泉小学校

2組。蓑輪先生、柴本先生。高学年になるとアルペンに入れ込んでいた。4年から6年までやっていた、土曜日の少年野球(かなりの弱小チームではあった)が、楽しみで仕方なかった。1年生から剣道もやっていて、練習は嫌だったが、大会に出ると意外に毎回イイところまでいけので、大会だけは楽しかった!

野沢温泉中学校

3年間、担任は飯尾先生。部活はアルペン部。昼休みにみんなとやる、サッカーとバスケが何よりも楽しかった(授業の間の10分しかない休憩時間ですら、一目散に体育館へと向かっていた)。また、この頃は北竜湖でヘラブナを釣ることにもハマっていた。リュックを背負って自転車で北竜湖まで行き、日が暮れるまでやっていた。

飯山北高校

アルペン部。12キロの道のりを自転車で通っていた。自宅の野沢から、行きはヨイヨイ、帰りは地獄の上り坂。
この頃から今に至るまでひたすら90年代日本語ラップ「BUDDHA BRAND」を聴いており、今でも勝負前にはいつも頭の中で流れている。高校生活では、ほとんどの時間をひとつ年上の友達と過ごした。冬山で遭難したり、あんなことをしたり、こんなことをしたりで視野が広がった。

立命館大学 経済学部国際経済学科

笠井ゼミ、体育会スキー部。ほとんどの時間をスキー部の仲間と過ごした。立山合宿や、海外遠征で行ったニュージーランドは凄く楽しかった。自然が素晴らしかったし、特に向こうのバーが楽しかった。

また、この頃に「金持ち父さん・貧乏父さん」を読み、少額から金融投資をスタート。これまでに酸いも甘いも経験した。(若い頃に失敗しておいて良かった!)

今でも大学時代の友達が、全国から野沢のペンションへ遊びに来てくれることが最高に嬉しい。

STORY

職歴

長野銀行に就職

営業。
その人が何を求めているのかをひたすら考え、そして心が通じる瞬間が堪らなく嬉しい。

大学4年のゴールデンウィーク頃から就活をスタート。その頃FX(外国為替証拠金取引。バイト代ぐらいになればと思って始めた)をやっていたこともあり、なんとなく金融が面白そうかな、という思いと、スキー部の先輩(白馬村出身)が「長野銀行」で活躍していることを知っていたので、地元の金融機関である「株式会社 長野銀行」への入行を決めた。

1年目、自宅から1番近い中野支店に勤務
名前こそ「審査係」であったが、実際ほとんどの仕事は、店舗周りの掃除と、冬は雪かきばかり。ちょっと退屈であったが、雪かきに関しては豪雪地帯・野沢温泉出身の実力をここぞとばかりに発揮し、銀行の敷地内だけでは物足りず、勝手に近所の商店の雪かきまでしていた。そして楽しくお茶をいただき、預金までしてもらった。お客さんと心が通じる。「河野君だから」で任せてもらう。これが営業か…と、その時に思った。

2年目からは松本の支店で営業係に。
最初の1週間は「なんで同じエリアから毎日定期預金やローンの契約があがるんだろう?」と疑問に思っていたが、翌週のある瞬間から、自分の中で突然「何か」が解り、営業が面白くて仕方なくなった。とにかく元気よくやる。そうすると、もっと楽しくなる。お客さんは「その先に何が欲しいのか」をひたすら真剣に考える。そして心が通じる。
いつになっても、この瞬間が嬉しくてたまらない。

転職前。毎晩晩酌していた寮母さんと寮の先輩と。
二日酔いで起きた日の朝。


異動・転勤が転機に

10年経ってもお客さんに慕われる噂の先輩。
僕も、そんな人間になりたい・・・。

営業になってから2年半経ったある日、突如本部の「システム課」に転勤が決まった。翌週にはそれまでの外回りの営業から、1歩も外に出ないシステム課へ。ある程度営業で成績も挙げていたので、その時は不満にも思ったが、今となってみればこの転勤は最高のタイミングのものだった。

というのは、「ずっと組織の中でサラリーマンとして働き、このまま仕事人生を終えるのか…。」という誰でも抱く思いが、芽生え始めた頃でもあったから。そして「やっぱり営業が楽しい」という思いもあり…。当時の営業先で数多くのお客さんの口から聞いていた先輩のこと思い出した。

その先輩は僕が回っていた営業エリアを、10年以上も前に回っていた。しかし、どのお客さんからも出てくる先輩の話。「あの人がみんなやってくれてた。そこから取引始めたんだよ。」「あの人のおかげで住宅ローンを組めた。」などなど。一体どんな人なんだろう?
自分も、転勤した後でもずっとお客さんにそう言ってもらえる人間になりたい。会ったことのない先輩を尊敬するようになり、ぜひ一度会ってみたいと思っていた。

転職を決意

「こういう先輩と一緒に仕事がしたい。」
転職を決意し、銀行を退職。

そんな僕の思いを知るお客さんが、先輩との会食の機会を作ってくれた。銀行から転職し、先に今の会社で働いていた先輩と、酔いながらも帰りの車で話した内容を今でも忘れない。先輩はとにかく誠実だった。「人としてどうあるべきか」それを第一に考えている。


「こういう先輩と一緒に仕事がしたい。」と強く思った。

これを機に転職を決意。父には反対されたが(今思えば当然かも知れない。)、「全力でやれば俺は絶対大丈夫」という根拠のない自信だけはあった。
そして2014年4月、4年間勤めた銀行を退職。

2014年5月、今の仕事のスタートを切った。他の転職先は一切調べもしなかった。


今の仕事へ

まさに、その人の人生そのもの。
お客さんの数だけ「物語」がある。

転職は大正解だった。

この仕事のいいところは、まず、どこで仕事するかを自分で決められること。ほとんどは地元の野沢温泉か飯山市で仕事をしている。地元でお客さん同士の情報が繋がり、お客さん同士の商売も繋がり、それがどんどん良いものになっていく。これは最高に嬉しい。銀行時代の松本のお客さんとも、いまだにお付き合いさせてもらっていることも僕の自慢。

また「お客さんの数だけ物語がある」ということを感じられるのが、この仕事最大の魅力。ある意味で、この仕事はその人の人生、そのものでもある。変わりゆく人生の場面場面で変化し、対応する。それも非常に重要な場面に立ち会うことになる。だから責任も大きい。時には世代をこえ、長い長いお付き合いとなる。いつの時にも「お客さんの心が豊かになるストーリー」だけにフォーカスする。
前提として「支店の数字」がある前職とはここが大きく違う。

自分の仕事によって、この素晴らしい地域が盛り上がり、そしてそこに住む人の心が豊かになっていくことを想像すると、いつもワクワクし、楽しく打ち込める。

河野謙